王瓊(おうけい、字は徳華、号は晋渓)は、明代の官僚。王瓊は幼い頃から聡明で、4歳の時に字が読めるようになり、8歳で『史記』を通読し、1484年に進士となり、工部に入り、1年後に工部主事に昇進した。1493年から1496年にかけて、王瓊は都水郎中に任命され、漕河を治めた。水運官吏の評者によると、水河河図、河の脈絡の経緯及び古今の変遷、修治河道の経費及び歴朝に関する水河奏議、碑記の記載は極めて詳しい。
1496年、王瓊は戸部陝西司郎中に抜擢された。山東参王瓊政(1499年- 1501年)、河南参政(1503年- 1505年)、河南右布政(1505年- 1506年)、北京戸部右侍郎(1506年- 1508年、1512年- 1513年)、南京吏部右侍郎(1513年- 1515年)、戸部尚書(1515年- 1520年)、吏部尚書(1520年- 1521年)を歴任した。
正徳年間は明の歴史の中でも悪名高い時期で、王瓊のように職務を尽くして守り、滅私奉公をして高位の大臣であっても、なかなか自分の尊厳を保つことができなかった。明の武宗の朱厚熏は個人の享楽を追求し、朝政に無心で、権力を他人に委ねた。地方の反乱や農民蜂起が相次ぐ中、遊び好きの皇帝は何度も寵臣たちと一緒に京を発った。兵部尚書だった王瓊は、朝中の事務を整理していただけでなく、将才を派遣して戦略の要衝を管理した。
1519年、寧王朱宸濠が南昌で反乱を起こすと、王瓊は事前に計画を練っていた。王瓊は朝中をうまく処理するために、時には皇帝の寵臣を取り合わなければならなかった。そのためか、多くの御史が王瓊を嫌っており、内閣大学士・首輔大臣の楊廷和も彼と対立していた。1521年、世宗が即位すると、武宗の寵臣らは処刑された。楊廷和は世宗を迎えた功績で、重責を任された。楊廷と親交のあった王瓊は「交結内侍」の罪に問われて逮捕され投獄された。
1524年、楊廷和は「大礼議」で世宗と意見が合わず、帰任を免れた。「大礼議」とは世宗朱厚の父の主祀と尊号を議論し、世宗が本来の宗法制度を捨てて本支を挙上しようとすると、楊廷和は首輔の位をもって「継統継嗣」に応ずるように勧め、武宗の父孝宗を皇考とした。楊廷和が去ると、世宗の寵臣が権力を握り始め、桂萼や張敬をはじめとする新勢力が楊廷和に反発した官僚を登用するようになった。3年後の1528年3月、朝廷は再び王瓊を兵部尚書兼都察院右都御史に起用し、陝甘軍務を提督し、固原に赴任させた。当時すでに七十歳の王瓊はまだ精力的であり、調度の方があり、安定のために辺境を駆け回って三年余りになり、後世の歴史家にほめられた。
西部辺境の督理軍務の間、王瓊はトルファン通商との相互交渉を主張して和睦を主張したが、明との国境に侵入し続けたモンゴルやチベットに対しては厳しい打撃を与えた。1531年、王瓊奉の詔により帰京した際、西北の辺境は安定していたため、地元の人々は彼に名残を惜しんだ。
王瓊は吏部尚書として赴任すると、前朝の遺老と称して排斥しようとしたが、王瓊は職務を固守した。言うまでもなく、戸部尚書と兵部尚書として、王瓊は職務を尽くした。王瓊は辺境軍の兵士の編制人数、必要とされる軍需食糧の数量を知り知り、辺境軍の総兵官の給与が適正かどうかを即座に判断できたという。
明代の霍韜・大臣は兵部の公文書を整理する際、これまで面識のなかった兵部尚書に敬意を表した。王瓊のための墓誌銘に、霍韜は特に1521年の王瓊への告発を反論した。
『漕河図志』のほか、王瓊には2つの奏疎集が存在している。『晋渓奏議』(しんけいそうぎ)、『本兵敷奏』(十四巻)とも呼ばれ、1515年から1521年まで兵部尚書として在職した際の奏疎を収録している。『皇明経世文編』に王瓊奏疎三十七編が収録されている。王瓊はまた『掾曹名臣録』の一巻を著し、明の建国以来、普通衙門の官吏から始めて後に名臣となった人物の事跡を採録し、書にして励まし、後に『続録』の一巻を作った。王瓊はまた、『北虜(辺)事跡』と『西番事跡』の各一巻を書いて、1521年から1531年にかけて、韃靼人と西番人を周旋したことを記録している。最後に特筆すべきは『双渓雑記』(一巻)である。